雑感(サービス)
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ダメな人とダメでない人
ダメ、という意味は、いろんな状況でいろんな意味に使われます。ここでいうところのダメは、このトピックの内容と、読者の常識によるところがありますので、各自の御責任の範囲内でご解釈ください。
また、これは本研究室の指導上、受講する学生さんへの事前説明事項でもあり、指導開始時の説明でもあります。
さらに、現代では、採用、新人教育、さては育児から友達選びにも共通の事項と思います。
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いろんな作業で、あるいはいろんな会話で、困ることがあります。一般に、そのようなシチュエーションは、会話や説明書など、言語ベースの伝達がベースになっている場合です。例えば機器を使用する場合、そのマニュアルは言語で記述されています。口頭での説明もまた言語で行われています。もし、図画を用いた場合、絵文字や古代画のような意義からは、広義の言語とも受け取れるかもしれません。別のトピックでも、専門用語が大切で、正確な伝達には表現にも気を遣わないといけないこと、などを取り上げました。さらに、「興味」や「理解」という言葉の時代による変化も取り上げました。
つまり現代では、教育を含む意思疎通における言語利用の効果は、必ずしも伝える側だけの責任だけでは治らない、ということがある程度容易に想像できます。あるいは、経験上、嫌というほど思い知っている方も少なからずおられるのではないでしょうか。
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授業のアンケートでも、
説明が丁寧だ
という意見とともに、
読むところが多くてわかりにくい、
という意見も頂戴します。
大切なのは、両者とも同じ資料を閲覧していることです。
これらの差異は、授業改善の参考にもなりますが、後述のような思想のもとで分析、検討の結果、無視すべき意見に分類されるものも多く(意見の種類分類的には論理的に半数)あります。無視すべき意見を述べた人と提出物との相関を概観すれば、そういう人の、そこに説明した採点基準をまるでなかったかのように無視しているもの割合が多いことから、
それはこのトピックで言う「ダメ」のうちかもしれません。
読まない人はなぜ読まないのか。
その動機は複数あるでしょう。
ひとつは、
対象を簡単なものと判断している可能性があります。説明資料に対して、作業が相対的に簡単であれば、読む必要はない、と考え行動する可能性があります。そう言う人は、物事を正当に評価する能力が不足している可能性があります。経験上、既出のもので既に経験があるのであれば、説明を受けることなく、ことをこなせる可能性はあります。しかし、本当に経験、とりわけ(ないに越したことがありませんが)失敗経験があれば、経験との差異に注視して説明書を読むはずです。つまり、観点は異なれど、やはり読むはずです。読まずにことを起こしたのであれば、倫理的にも問題が重大です。
次に、
説明書は読むけれども、「読んだ」気になっているだけで、そこに書かれた言葉を理解していない場合、つまり狭義の「読んだ」人です。そういう人は、読んでる時間が感覚的に非常に長く感じるはずです。例えば授業でも、説明してうなずく受講生に、直後に説明内容を自らの言葉で説明してもらうと、そのような「聞いた気になってるけど何も聞いて(理解して)いない」人が実在することが確認できます。もっとも最近では、言語的、論理的な問題で、説明できない人も多くの割合で含まれることも同時に確認できます。また、そういう人はいくら時間をかけて読んでも、結局頭に入っていないですから、結果的には、最初の読まない人と大差ありません。理解していない人は忘れるのも大変早いです。取得単位の授業内容はもちろん、授業冒頭に確認する先週の授業内容すら覚えていません。そういう人であれば、時間の節約という非常に狭い観点からは、読まない方がマシです。ただ、このタイプの人は、原因究明の際は、理解していないという認識があるので、原因への到達は容易です。特徴的には、
「分からなかった」
という表現よりも、
「知らなかった」
という表現をよく使用します。ただし、分かってない、知らないのに扱った、という、倫理的に明確で大きな問題があります。
さらに、
説明書は読むけれども、分からない部分については、自分の常識で補完して理解し、結局、タチの悪いことに、しっかり読んで、しっかり理解した、と思ってしまう人です。こう言う人は、トラブルの究明にも時間がかかります。それは、自分は何もミスをしていないと心の底から信じているからです。そういう人の調査していくと、大抵以下のような説明が聞けます。
「説明書通りにした」、
「勝手に問題が生じた」、
「何もおかしいことはしていない」。
そして、
「自分はそう理解した」、
「常識的にそういう意味だ」、
「理解したようにも解釈可能だ」、
などなど。
個人の理解には意味はないですし、それで済むなら、教育はもちろん、書籍等の知識データーベースは存在意義をなしません。そもそもなぜ大学に来ているんでしょうか。
# これも明確です。就職のため、です。スキルアップっていうのは名目です。
常識は、基本的に事実や証明された事象は含まれますが、必要十分ではありません。むしろ、間違ったものが多かったり、前述の個人的主観そのものだったりもします。複数解釈が可能なら、結局一つの解釈を取捨選択した時点で、個人的主観が入っています。そもそも、複数解釈できる不備のある文章であれば、後からではなくそのときに確認して次に進むべきです。後からそのようにいう人は、結局、自分の常識と自分の主観で動いているということです。
最後に、
そもそも読む気がない、ことをより良いレベルで実行する気がない、と言う可能性があります。これは多分、ダメ認定率が最も高いのではないでしょうか。
ここに上げきれないケースもありますが、概ね代表的なものは含まれているのではないでしょうか。
ではどうすればばよいのか。
上述の典型的なケースをまず“理解”することです。その上で、自分を含めて周りの人との経験を思い出して、分析、検出できるようになることです。そうすれば、その経験やスキルは、自分の行動に対する常駐フィルターとして機能しはじめます。そうすれば、自分の行動を支配する思考が変化し、根拠を求めることが常態化し、その根拠を常識ではなく、より確度の高い事例を求めて、科学への興味が増すことでしょう。つまり、科学的思考をし始めることでしょう。そうなればあとは大丈夫です。
これを支えるのは結局知識集積です。
専門外のことでも、言葉に留意すればある程度のレベル以上で、ほぼ正確に理解できます。もっとも、最近ではそういう観点からは少しクエスチョンな専門用語もありますが、そういう用語は、時代とともに言葉は変わっていくもの、というスタンスの人からすれば、なんら問題ではなく、別にきちんと定義さえできていれば、問題はないということになります。ただ、汎用性は著しく低下することは免れません。しかし、そういうスタンスの人には、一般的には専門用語だから構わない、それを知っていうる、使用できるのが専門家なので、それを知っておくべきだ、という主張になるようです。でも、個人的には、排除のための専門用語、的な使用方法は、ある時代までのカルテの医療用語のように、本末転倒にも思います。
いずれにしても、科学の存在意義と、常識に対する優位性を認識できれば、思考がより科学的になり、混沌としている世の中の人の思考のその原因を理解でき、それを解決できる手段とすべきと信じれるようになるでしょう。日本ではまだそのような思想は受け入れられないことが多いかもしれません。でも、世界の先進国を見れば、完璧ではないですが、その方向へ進んでることを見つけることができるかもしれません。そのとき、あなたが日本を生活の拠点にするのか、それとも、欧米その他の国を拠点にし、日本は、四季のある、美味しい食材もいただける、休日のリゾート地と考えるのか、選択してみるのも一興です。
なかなかダメでない人になるのは大変です。
自問自答をしながら少しずつ自己改善していくしかなさそうです。
# 大学が、就職斡旋や企業への学生推薦をしなくなったとき、大学は大学になれるかもしれませんね。