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スマホ育児の是非の議論は不毛かも

スマホ育児の是非の議論は不毛かも

 最近では、幼児にまでタブレット端末が浸透し、スマホ育児、という手法が定着しているそうです。

# もっとも、幼児が家族割契約しているわけではないでしょうが、、、

とはいえまだ歴史が浅いので、その是非がネットで話題になることがあります。 大学でも、本過程では、授業中のスマフォ厳禁、という授業が多いそうです。とかく統制を取ることが高質の管理した教育、という立場の意見が大勢を占める本過程なので、選択した学生さんにとってはその時点で仕方ないのでしょうが。

  個人的には、授業中に明確な周囲への迷惑がないのであれば、基本的にある程度の自由はあってしかるべきと思います。ネガティブな行動では、スマフォでおとなしく気づかれない程度にゲームする程度であれば、構わないでしょう。もっとも、それならもっと別の場所で堂々とすれば良いのにとは思いますが、そうさせるのは、出席重視で成績にその結果を反映させたりする形式的な授業方法が多いからかもしれませんが。

テレビやラジオにしても、開発普及から何十年もたってしまいましたが、未だ明確な研究は多くないと思います。それは、真偽は別として、あまり悪影響がないと信じている人が多いからです。テレビが普及し始めた時にも、テレビを成人後に受け入れた世代からは、子供がテレビっ子と呼ばれる依存症に陥っていう状況をとを認識できました。しかし今の時代、テレビを見ていてもそれを依存いていると受け止める人はいません。

 同時期に、ひとの精神や思考は大きく変化したでしょうか。もししたのであれば、テレビ等が影響を及ぼす可能性はあります。でも、いまの時代にそれを分析しようとする研究者はまずいません。もはやそれを認知できる状況ではなくなってしまったからです。永遠に都市伝説で終わるでしょう。

  もう少し時代の近いパソコンはどうでしょう。残念ながら、パソコンは世間では、実態としてはあまり普及しませんでした。とりあえず買ったけど、埃を被ったまま。そんな商品はまるであの有名なぶら下がり健康器か、ババ抜きのババのようなロデオ型健康機、のようです。本来は個人に対してはスマフォと同じ影響を与えているのでしょうが、当然、世間にインパクトは与えていないので調査すらされていないでしょう。したがって、パソコンは参考にはなりません。

 当時のテレビと同様に、スマフォ依存症やスマフォ育児は、いままだ普及時期にあたります。使用しない人から見れば、依存症などと思われ、眉をひそめられることもあるでしょう。しかし、テレビの普及期を前例として考えれば、あと30年も経てば誰も気にしなくなるはずです。その影響が大きいかどうかに関係なく、その影響が人類の進化と融合されてしまっているからです。

 それでもスマフォ育児を語るなら、その評価基準を自分なりに考えて見ることです。一言でスマフォ育児といっても、機器がスマフォだけにコンテンツは多彩です。それだけでも単純な是非が決められないことはきらかです。

 絶対的な基準としてあげられる一つのデメリットは、やはり依存症です。単純に、依存症はよくありません。 ただ、世の中は複雑になってしまって、依存症ですら必ずしも悪いことと言えないものも増えました。

 たとえば私の業務の進め方では、タブレットで用語や解説資料、文献を様々なことを調べながら、別の文献を読んだり、文章を書いたりします。このような作業に、タブレットは便利でもはやタブレットなしでは作業ができないので、これも依存症です。タブレットを使わずに紙面の資料を読むことが大切だと指導する優秀な指導者も多いようですが、私個人は、その作業工数を考えれば、タブレットに依存する方が効率的なのは間違いないと思います。 したがって、依存症ですら、その中身を吟味する必要があると考えます。つまり、依存症が絶対に悪いわけではありません。

 同様に、タブレットでゲームをしていて、そのゲームが気になって仕方がないという依存症があります。このような場合、それが他の機器、PCでも同様の作業が可能な場合、実はそれはタブレット依存ではなく、ゲーム依存症と分類されるべきです。ゲーム依存症は、日本が現在進めているプログラム教育が普及した暁には、その産業を支える重要な消費者になるという意味では、これも悪いとは言えません。ただ一般に、単純娯楽に費やす時間が増えると生産性は低下するので、ゲーム依存症は悪とも言えます。

 結局、スマフォ育児も同様ではないでしょうか。

 そこで気になるのは、各論に入ってコンテンツの是非、でしょう。 実はこれも議論の余地がないように思えます。

 世の中には、是非に関して、あるいは評価について、様々な意見があります。その理由は、一つには、評価者の基準が異なるからではないでしょうか。平均的なものを求めるのなら、世に数多ある評価サイトの数値だけを判断に用いればよいでしょう。組織の人事でもそのようにしている組織は多くあるようです。判断基準が多くあって困る場合に平均的数値を用いることの欠点は、良いものにはなかなか巡り会えない、ということです。すべてを合算すれば特徴血が薄れていくのはいまのAI技術で明らかです。ケースごとに分離して適切な複数スケールで評価すること、できる人が重要な時代です。いい人材を見出すために数値評価を入れている組織では、もはや当然のこととして心当たりがあるのではないでしょうか。

 これと同様で、世間の評価でスマフォ育児を語るのなら、根拠のない都市伝説に基づく平均値を機にすると良いでしょう。なにも考えずに、多数の一部としての個人がスマフォ育児をすべきかどうか悩むのであれば、そのレで十分でしょう。でも、自分にとってどうなのか、自分の子供にとってどうなのか、に関する判断基準は次の一つで十分です。

 そのコンテンツが自分より優れているか?

です。スマフォ育児を導入するかどうかはその当人によって決まるといっても過言ではありません。

 一例を挙げれば、自動車運転中に子供をおとなしくしなければならない時、お母さんは車の運転に集中しなければなりませんから、テレビでもスマフォでも利用すべきでしょう。一方で、子供をしっかり躾できているお母さんなら、運転しながら一言注意するだけで子供をおとなしくするのに十分であれば、スマフォの出番はありません。この場合、後者のケースは現代では非常に少ないかもしれませんが、スマフォ育児をするかどうかの判断基準例としてはまぁまぁな事例と思います。

 3歳児が、スマフォ動画でNHK教育高校物理や圧縮性衝撃波の説明を見ているのを見て、スマフォ育児最低!なんて言えるでしょうか・・・^^

 いろんな教育を、自身の能力や時間の都合による制限などの環境下で、スマフォの方が自分より優れている時には、スマフォを使用することはなんら問題ではなさそうです。特に手が足らない時にはよいのかもしれません。スマフォによって何か不都合が生じたとしても、自分がスマフォに変わって育児したときよりもマシなのですから、それは致し方ないということです。手が足りないから仕方がない、と思ったとき、もし、本当に手が足りないのかを検討する余裕があるのでしたら、昭和中期以前の時代の炊飯器や電子レンジ、洗濯機に中食やインスタント食品なんかのなかった時代に、複数の子育てをした人々の暮らしを、それこそスマフォで調べて振り返って見るのも良いかもしれません。今の時代に役に立つアナログなロストテクノロジーを発掘できるかもしれません。もちろん、時代錯誤で採用する気にならないかもしれません。

 便利なものを賢く取り入れることに世の中では抵抗する人がいます。きちんとした根拠があるのかどうかを考え、自分のオリジナルの判断基準を持って、その判断基準を常に見直しながら、新しいものを利用することはどの時代でも先人として大切なことです。

 まさしく、現代におけるこのような作業ができるような人材の不足に、ようやく気付いて慌てて対処しているのが今回の「論理的思考を育てること目的に掲げて始まるそれを考慮したプログラム教育の導入」です。役所に関わったことがあればもうお分かりでしょう。上記の文章で大切なのは、良し悪し関係なくとりあえずそれを考慮したプログラム教育の「導入」です。導入することが目的で、導入の結果能力を高めるという成果は評価対象外です。

 というわけで、 スマフォ育児、よくわからなければ、スマフォに丸投げしてみるのも一手かもしれませんね。